2013.03.31.

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いつか来た道:昔の社会党=今の民主党!

民主・海江田代表「適地は辺野古」!


 民主党の海江田代表は3月30日、那覇市で記者団に、沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場の移設に関し、「一日も早く移さなければいけない。適地は辺野古だ」と述べ、政府の名護市辺野古沿岸部への移設案が適切だとの考えを示した。
 一方で、海江田氏は、政府が4月28日に主権回復・国際社会復帰を記念する式典を開催することについて、「4月28日は沖縄にとって屈辱の歴史の日だ。普天間移設が大きな課題になっている時に沖縄の人たちの気持ちを逆なでするのはいかがなものか」と批判した。

 社会党の前身は、非共産系の左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会民衆党などが合同したもので、右派・中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもっていた。

 社会党の歴史は、左派と右派の対立闘争であり、共産系労組に対抗するべくGHQの肝入りで日本労働組合総評議会(総評)が結成されたが、再軍備論争の加熱とともに反米・反政府が強くなり、社会党のバックボーンとなった。

 1960年の第1次安保までの5年間、労働争議は多発し、総選挙でも保守に肉薄するまでの議席を獲得し、政権獲得も夢でないと左派系は夢を抱くことになる。しかし、安保闘争が終結すると国民の関心は一挙に冷め、党勢も落ち始める。

 1970年の第2次安保直前の内ゲバ、中国の文化大革命、ソ連のチェコ侵攻など、社会主義への幻滅感が社会党離れを引き起こしてしまった。都市部の凋落はひどく、多党化現象の走りになったのもこの頃からである。

 1976年に自民党は過半数割れに陥入り、社会党にとって絶好の機会にも係わらず、党内抗争は続いており、江田三郎が1977年の党大会で副委員長を解任され離党、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。

 1986年のダブル選挙で大敗し、委員長が交代・土井たか子が初めての女性党首となった。次の選挙では、たか子ブームで躍進した1990年第39回総選挙で、公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生した。

 1993年総選挙で自民党の自滅により首相を輩出することができなかったが、非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。羽田政権で政権与党になったが、離脱。自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、連立首班となった。

 1996年、村山内閣総辞職後、党名も社会民主党に改称。しかし、党勢拡大は望めなく、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫・船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。それが命取りとなり、凋落の一途を辿り現在は絶滅危惧種扱いである。

 90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆、細川律夫、輿石東、大畠章宏、鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。

 鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。

 民主党の基盤は、労働組合組織と旧社会党脱党者、自民党の一部とさきがけなどの中間派が混在し、党の綱領も真面に作れない烏合の集団である。

 その民主党が、政権を担い歩んだ3年余り、国は大震災と原発事故という複合災害にあい、復興も原発放射能除去もまだ途上にある中、旧社会党の90年組も先の総選挙で大量討ち死にあった。

 今のままで進むなら、まもなく民主党も絶滅危惧種に指定されるだろう。